高知地方裁判所 昭和57年(行ウ)9号 判決 1990年9月10日
原告 宮本千秋
右訴訟代理人弁護士 駿河哲男
被告 中村労働基準監督署長 岡崎正一
右指定代理人 石井宏治
<ほか一〇名>
主文
一 原告の請求を棄却する。
二 訴訟費用は原告の負担とする。
事実
第一当事者の求めた裁判
一 請求の趣旨
1 被告が昭和五四年九月二〇日原告に対してした労働者災害補償保険法に基づく遺族補償年金、葬祭料及び遺族特別支給金の支給をしない旨の決定を取り消す。
2 訴訟費用は被告の負担とする。
二 請求の趣旨に対する答弁
主文同旨
第二当事者の主張
一 請求原因
1 宮本政秋(以下「政秋」という。)は、昭和四二年一月(当時五〇歳)中村市森林組合に伐採夫として雇用され、昭和四四年一二月(同五三歳)までチェンソーを使用して伐木造材作業に従事し、昭和五〇年三月六日高知県立宿毛病院で症度四期(アンドレワ・ガラニナ基準四期)の振動障害と診断され、昭和五一年六月二一日同病院に入院し、同年九月一日被告から右振動障害が業務上の疾病であるとの認定を受け、昭和五二年九月一九日脳梗塞のため死亡した。
2(一)原告は、政秋の妻であり、被告に対し、昭和五二年九月二七日、労働者災害補償保険法に基づいて遺族補償年金、葬祭料及び遺族特別支給金の給付を求めたところ、被告は、政秋の死亡は業務上の事由によるものとは認められないことを理由として、昭和五四年九月二〇日、右遺族補償年金等を支給しない旨の決定(以下「本件処分」という。)をした。
(二) 原告は、本件処分を不服として、高知労働者災害補償保険審査官に対し審査請求をしたが、同審査官は、昭和五五年一二月一五日、審査請求を棄却する旨の決定をした。
(三) 原告は、右棄却決定を不服として、更に労働保険審査会に対し再審査請求をしたが、同審査会は、昭和五七年六月二二日、再審査請求を棄却する旨の裁決をし、その裁決書謄本は同年八月七日原告に送達された。
3 しかし、次に述べるとおり、政秋の脳梗塞による死亡は業務上の事由によるものというべきであるから、本件処分は違法である。
(一) 振動障害は、チェンソー等の機械の振動が人体に伝播されて起こる全身疾患であり、全身症状として疲労、不眠、消化障害、手掌発汗、吐き気、めまい、頭重等を生ずるのであって、これらの症状は中枢神経系の障害に基づくものである。チェンソーによる振動障害は、当初は局所的なものに止まるとしても、振動の影響は頭部にも達し、人体に対し不断に全身的な影響を与え、障害の範囲も次第に全身に波及していくのであり、また、振動障害の法療方法として全身的治療を行うことが定着しており、局所の治療で足りるとする者はいないのであって、これらによって振動障害は全身疾患であることが裏付けられている。
(二) チェンソーによる振動障害の病態を正確に把握するためには、チェンソー使用者の作業実態を考慮しなければならない。振動障害は、チェンソーの使用によって発生するのであるから、その症状の程度は、チェンソーの使用継続あるいは使用度によって進行拡大し、また、チェンソーの大きさ、重量、空気圧、振動の量と質のほか、作業現場、作業時間、賃金、使用者の体力等の諸条件によって相応に各様となるのであって、軽症で局所に止まることもあれば、重症で全身的になることもあり、振動障害の防止対策が積極的に講じられ、それが進めば進むほど、振動障害が発生してもそれは全体的に軽症化するところ、わが国の場合、昭和四四年に振動障害協定(林野庁と全林野労働組合との間の一日のチェンソーの使用時間を二時間とする規制)が成立しているが、それまでは振動障害に対する防止策が林野庁によりほとんど考慮されることがなかったのであるから、同年までの間にチェンソーを使用したことによる振動障害者より、その防止策が積極的に講じられるようになった昭和四八年以降にチェンソーを使用して振動障害に罹った者の方が、その障害の程度が概して軽症になる。
(三) そして、振動障害の発症については、振動工具の使用者の体質、既往症、年齢によっても異なり、高年齢であるほど、身体各部の障害が増えるために発症率が高く、五〇歳以上の人の発症は早くて多いのであり、また、その症状は、加齢等によって助長される。すなわち、振動障害は、血管、血流に関する疾患でもあり、その特徴的な症状として血管緊張異常、血管れん縮異常各症候群があり、末梢血管の緊張異常又はれん縮傾向は、症状が進行すると、手指のみならず足趾その他の部位にも及び、更に心冠動脈、脳血管の緊張異常、れん縮発作が現れる場合もあり、心臓部の圧迫感、苦痛や発作性のめまいを呈する症例もみられ、血管の緊張異常、れん縮発作が繰り返されると、振動による微小外傷を伴って血管壁の変性が生じやすくなり、手指動脈の中膜の肥厚と硝子化内膜下線維増殖などがみられ、また器質的変化のない場合でも、正常に比して内腔の狭小化が多く、上肢の主幹動脈が狭小化することもあり、他方において、老化すると血流が悪くなるほか、動脈硬化や高血圧、心不全等の血管、血流、血液粘度に関する疾病が老化に伴って現われることが多いのであるから、これらの老化や私疾病と振動障害との相乗作用は当然にあり得ることである。
(四) ところで、政秋は、五〇歳から五三歳にかけて、防振装置のないチェンソー(重量八キログラム、燃料・潤滑油を入れると一三ないし一五キログラムとなる。)を使用し、賃金出来高払制のもとに一か月平均約二五日間、一日平均五時間ないし五時間半にもわたり伐木造材作業に従事していたものであり、しかも、寒冷な山奥の急傾斜地での作業が多く、作業時にはチェンソーの怠りない保持による強度な緊張を余儀なくされていたため、チェンソーによる振動の負担が大きく、右作業に従事するようになってから約二年後の昭和四四年一月ころから、両上肢のしびれ、痛み、手指の白ろう症状(以下「レイノー症状」「レイノー現象」などということがある。)が現われ、同年夏には手首にまで白ろう症状が現われ、同年秋にはめまい、頭重、盗汗、胸部絞扼感が生じ、症状が一層増悪して全身的なものとなり、同年一二月にはチェンソーの使用に耐えられなくなってこれをやめたのである。その上、政秋の障害は、左側上肢において鎖骨下動脈まで壁肥厚、内腔の狭小化がみられ、その程度は、鎖骨下動脈では比較的軽度であったが、末梢に至るに従って増強し、部位により内腔が星茫状を呈する部分もみられたのであり、全身症状を呈していたのであるから、相当重症の振動障害患者であった。更に、政秋の剖検結果によると、肥厚した動脈壁には中膜及び内膜下組織における膠原線維の不規則な増生、弾力線維の走行の乱れ等がみられると共に、部位により軽度ながら粘液多糖体の出現も認められ、更に静脈系にも動脈より軽度ではあるが同様の変化が認められたのであって、これらの血管系の変化は、長期にわたりれん縮が持続した結果であると推定され、振動障害の症状としての病変であるということができる。そして、政秋は、チェンソーを使用するまでは健康で病気をしたことがなかったのに、振動障害の治療中、脳梗塞により死亡したのである。
(五) 振動障害は回復しにくいものであり、振動工具の使用を中止した後も症状が変わらない例が多く、かえって発作の異常増悪の例もあり、レイノー症状が一度生ずると治ることはなく、寒い所へ薄着で出て行くといったようなことをすると必ず右症状が出て来るのであり、症状がないことから直ちに治ったということはできない。そして、生理的反応が病状として病的に顕在化するのは、それまでの刺激、反応関係を越えた異常な状態が発生したということであり、その異常な状態の継続とその上に加わる刺激暴露は更に異常な状態を推し進め、このような状態が進んで行くと、刺激暴露がなくなっても、また一定の医療行為が加えられても、二次的に新たな障害が生じたり、症状が進行したりすることがあることは、一般的に他の疾病についてもいえることであり、また、他の疾病や他の刺激が加わることによっても増悪、顕在化することが十分あり得るのである。
(六) これに対し、局所振動による人身障害はその振動の当該人体に伝播する人体局所ないしその付近の局所的な障害に限られるとする見解があるが、右見解によると、チェンソー等の振動の影響は手指だけに止まるのか、上肢にも及ぶのか、及ぶとしてそれがどの範囲のものであるのか、またどの程度のものであるのかについて各様であって定説がなく、これは右見解を採る者が自己の観察した重症患者の症状、程度をもって立論しようとするにすぎないからであり、振動障害の皮相な観察所見であるといわざるを得ないし、また、右見解は、中枢神経系の症状について振動障害に特有の症状がないとか不定愁訴にすぎないとか説明することにより、振動障害が中枢神経系の障害ではないとしているが、これはチェンソーによる振動障害の病態を正確に把握していないからであり、結局、右見解は不当であるといわなければならない。
(七) 以上の諸点と証拠に現われた医師の所見等を総合して考えると、政秋は、振動障害が共働原因となって脳動脈に強度のれん縮発作を起こしたため、大脳が虚血状態となって脳梗塞を生じ、その結果死亡したというべきであり、また、仮に同人の脳梗塞の原因が心房細動によって心臓内に形成された血栓が脳内に移行したことにあるとしても、心房細動の発生及びこれによる血栓の形成の原因が重症の振動障害による心筋の虚血発作である可能性を否定することはできないから、同人の死亡は業務上の事由によるものというべきである。
4 よって、原告は、本件処分の取消しを求める。
二 請求原因に対する認否と被告の主張
(認否)
請求原因1、2の事実は認める。同3の事実のうち、政秋がチェンソーを使用したのが五〇歳から五三歳にかけてであったことは認め、その余は争う。
(主張)
1 振動障害の病像
振動障害は、直接振動暴露を受けた手指及びその近接部位に限局して症状を発する局所的疾患であり、その症状は、レイノー現象(蒼白発作)を主徴とした末梢循環障害、末梢神経障害及び骨・関節・腱等の異常による運動器障害であって、手指・前腕等より上位の血管系、神経系に器質的あるいは機能的病変をもたらしたり、血液成分や血液像の変化が中枢神経系に障害を与えたりするものではない。したがって、振動障害によって脳血管れん縮が生ずることはない。
チェンソーによる振動は、直接振動暴露を受けた部位(手)から肘関節までの間でその大部分が減衰するのであって、直接暴露を受けた部位(手)から中枢神経系に直接伝播され、そこに器質的変化を引き起こして機能障害を生ずるとは考えられない。もっとも、中枢神経系と末梢神経系とは不可分であり、振動暴露を受けたという情報(振動情報)は、末梢神経から中枢神経系に伝達され、これを受けた中枢神経系は生体防御のために様々な反応を起こすが、この中枢神経系の反応は、正常な生体防御反応であり、中枢神経系に機能的又は器質的変化が生じていることを意味するわけではないから、右の中枢神経系の反応をとらえて振動障害が全身的疾患であるということはできない。また、中枢神経系は、振動等のストレスに対し、十分な適応能力ないし回復力を持っており、人間が中枢神経系の情報処理能力を越えるほど長時間連続して強度の振動暴露を受けることはあり得ないであろうし、仮にそれほどの振動暴露があれば、中枢神経系が障害を起こす前に末梢神経、末梢循環器及び運動器が障害を起こし、もはや振動作業の続行が不可能となり、結果として中枢神経系は保護されると考えられるから、中枢神経系が情報を処理し切れなくなるとは考えられない。更に、振動障害が局所的疾患であることは、わが国のみならず諸外国においても多数の医学者によって承認されているところであり、振動障害によって中枢神経系の障害が生じているのを確認したとする報告例もない。
加えて、振動障害は、振動暴露によって起こるものであるから、振動暴露を中止すれば少なくとも増悪しないはずであるし、まして治療が加えられたならば、著しい改善がみられて当然であるところ、政秋は、昭和四四年一二月チェンソーの使用を中止してから八年弱を経過して脳梗塞を発症しており、その間振動障害の治療を受け、その症状は相当程度軽快していたのであるから、同人の脳梗塞は振動障害とは無関係である。
2 脳梗塞の発生機序
脳梗塞は、脳血管性障害(いわゆる脳卒中)のひとつであり、脳動脈が閉塞され、そのかん流領域に虚血が生じ、脳細胞が壊死に至る病気であり、その発生機序によって脳血栓と脳塞栓に大別される。脳血栓は、脳動脈に血栓(血液の凝固塊のこと)が形成されることによって脳梗塞を起こすものであり、血栓形成の原因としては、アテローム性動脈硬化症(粥状硬化症)によるものが多いとされる。脳塞栓は、血流中の塞栓物質により脳動脈が閉塞され、脳梗塞を起こすものであって、塞栓物質としては血栓が最も多く、これが血栓性脳塞栓症である。脳血栓は、脳動脈において血栓が形成され、その部分を閉塞するものであるのに対し、血栓性脳塞栓症は、脳動脈以外の部位で形成された血栓が血流によって脳動脈に漂着し、その部分を閉塞するものであり、血栓が形成される部位としては心臓が大半を占め、心臓における血栓形成の原因となるのは大部分が心房細動である。
脳血管れん縮については、くも膜下出血の場合には、脳血管がれん縮を起こし得るから、脳血管れん縮も脳梗塞の原因となり得るが、それ以外の場合は、脳血管は、四肢や内臓の血管に比して自律神経支配が弱く、これに対して反応する程度は小さいのであって、頭部外傷、髄膜感染症、機械的刺激等の例外的な場合を除き、脳血管がれん縮発作を起こすことはあり得ず、脳血管れん縮による脳梗塞もあり得ない。なお、くも膜下出血の場合に脳血管れん縮を生じさせる因子については必ずしも解明し尽くされていないが、外在的因子として、くも膜下血腫による機械的刺激、くも膜下血腫中の血管収縮物質(セロトニン、プロスタグランジン、オキシヘモグロビンなどの赤血球由来物質)及び血管運動神経の興奮などが、内在的因子として、動脈壁の組織学的変化、神経伝達物質に対する血管平滑筋の感受性の変化、動脈壁の代謝障害がそれぞれ挙げられており、これらの因子はくも膜下出血の場合に特有なものであり、それ以外の場合には当てはまらない。また、かつて「動脈閉塞のない梗塞」の発生機序が問題となり、外科や病理学系の医学者から脳血管れん縮によるものではないかとの仮説が唱えられ、これに対し、主として内科系の医学者から脳血管の神経支配が弱いことを理由に反対がなされ、論争となっていたが、その後の医学の進歩により、動脈閉塞がなくて梗塞が起こることはなく、右「動脈閉塞のない梗塞」は内頸動脈の病変に由来する塞栓であることが確認された。
したがって、政秋の脳梗塞は脳血管れん縮に基づくものではない。
3 政秋の脳梗塞の原因
政秋の脳底動脈にはアテローム硬化症が認められており、脳血栓の可能性を完全に否定することはできないが、アテローム硬化の程度は同人と同一年齢において通常みられるものより弱いものであったから、脳血栓の可能性は低い。昭和五二年九月一二日から同月一九日までの間の政秋の臨床所見によると、同月一四日には著明な心房細動が認められたほか、不整脈が認められた日が四日もあり、脳梗塞の発症前にも心房細動ないし不整脈が頻発していた可能性が高く、同人が脳梗塞発症の直前に心房細動を起こしていたとしても不自然ではない。また、そうでないとしても、心房細動以外の不整脈も心臓内における血栓形成の原因となり得るものとされており、政秋には、脳梗塞発症の当日、不整脈が認められているから、この不整脈が血栓形成の原因となった可能性も高い。更に、前駆症状もなく突然発症していることを併せ考えると、政秋の脳梗塞は、心臓において形成された血栓の脳内移行による血栓性脳塞栓症であることがほぼ確実である。そして、振動障害によって心房細動が生ずるという知見はなく、また、一過性にみられる心房細動は健常者でもみられるものであるから、政秋の心房細動を振動障害と結び付けることはできない。
なお、政秋の場合、剖検時に血管内に塞栓物質が見当らなかったのであるが、塞栓を生ずるような血栓は心房壁等に付着している陳旧性血栓ではなく、新鮮な血栓であることが多いため、塞栓を生じても融解してしまい、剖検において血管内に塞栓物質を発見し得ないことが多いのであって、政秋の場合、脳梗塞の発症から剖検がなされるまで一週間も経過しており、その間に血栓が融解した可能性が高いのであるから、剖検時に血管内に塞栓物質が見当たらなかったからといって、脳塞栓を否定することはできない。また、政秋の心臓に疾患はなかったのであるが、心房細動の際に心臓内に血栓が形成されやすい理由は、心房が無秩序かつ頻繁に興奮収縮するため、血液が心房内に停滞貯留することにあるから、心臓に疾患がなくても心房細動により血栓は生じ得る。
4 本件処分の正当性
以上の次第で、政秋の脳梗塞は、心房細動その他の不整脈により心臓において形成された血栓の脳内移行による血栓性脳塞栓症である可能性が最も高く、私疾病であるというべきであり、また、振動障害が右脳梗塞の発生につき相対的に有力な役割を果たしたという関係は認められないので、振動障害が共働原因であったとはいえず、更に、心房細動及びこれによる血栓形成の原因が振動障害による心筋の虚血発作である可能性があるともいえないから、本件処分は適法かつ妥当である。
第三証拠関係《省略》
理由
一 争いのない事実と争点
請求原因1、2の事実は当事者間に争いがなく、争点は、請求原因3、すなわち政秋の振動障害(以下「振動病」「振動症候群」ということがある。)と脳梗塞との間に相当因果関係が認められるか否かにある。
二 政秋の伐木造材作業従事から死亡までの概要と剖検所見
右の争いのない事実、《証拠省略》によると、政秋が死亡するに至った経緯及び同人に係る剖検所見について、次の事実(争いのないものを含む。)が認められる。
1 政秋は、昭和四二年一月(当時五〇歳)から中村市森林組合に伐採夫として雇用され、昭和四四年一二月までほぼ継続して、防振装置のない重量約八キログラムのチェンソーを使用して伐木作業に従事していた。そのチェンソー使用時間は、賃金出来高払制のもとに一か月平均二五日前後、一日平均五時間ないし五時間半に及ぶものであった上、その作業現場は急傾斜地が多かった。以上のことから、政秋の主治医であった吉岡信一は、チェンソーを保持するため同人の作業時の筋緊張は強かったと考えられ、振動の負担は大きかったと推測している。
2 政秋は、昭和四四年一月ころから両手指のレイノー現象、両上肢の疼痛、しびれ感を来し、同年夏にレイノー現象が現われ、同年秋以後、めまい、頭痛、頭重感、盗汗、胸部絞扼感を繰り返し感じるようになり、同年一二月チェンソーの使用を止めたが、その後も年間を通じ、レイノー現象の出現を繰り返すなど右症状が持続し、昭和五〇年三月六日高知県立宿毛病院で受診し、振動障害(アンドレワ・ガラニナ基準四期)と診断され、同年一〇月ころからレイノー現象が毎日出現し、睡眠を二時間程度しか得られなくなると共に、両手・手指の腫脹、胸部絞扼感、不整脈を来すようになり、昭和五一年三月には洞性不整脈、心房細動がみられ、同年四月一六日から同病院に通院して振動障害の治療を受け、同年六月二一日同病院に入院し、レイノー現象の出現頻度は減少したものの、昭和五二年七月ころ、病室でも両手首までレイノー現象を来し、発汗亢進が著明となり、上室性不整脈がしばしばみられ、時に心房細動がみられることもあり、同年九月一二日午後四時ころ、何らの前駆症状がなく、突然顔面蒼白となり、意識障害を来し、同日から同月一六日まで上室性不整脈がみられ、同月一四日には著明な心房細動がみられ、同日夕刻からレスピレーターによる人工呼吸を開始され、同月一九日午前一〇時五〇分ころ脳梗塞のため死亡した。なお、右心房細動は一過性のものであると考えられ、一過性脳虚血発作様の発作はみられず、また、血圧は、昭和五〇年三月六日最高二〇〇mm/Hg(以下数値のみを示す。)、最低一一五で、昭和五二年七、八月ころ最高二二〇ないし一三〇、最低一二〇ないし七〇で、同年九月一二日最高二一〇、最低一三〇であり、ヘマトクリット値は、同月一五日三八・五%(以下数値のみを示す。)、同月一六日四五・五、同月一七日四五・〇、同月一九日四三・〇であった。
3 政秋について同月一九日午後七時一五分ころから剖検が開始され、その結果、心臓には器質的な病変はないが、大動脈起始部の内面に軽度のアテローム斑の形成が、冠動脈の内膜には中等度のアテローム硬化症がそれぞれみられ、筋層内にごく一部ではあるが、冠動脈末梢枝の壁の著明な硝子様肥厚があり、また微小な瘢痕が少数散在性にみられること、脳実質は一般に脆弱で、軟化、変性の徴候を示しており、融解の徴候が特に脳幹部、小脳に著明であり、これらはレスピレーターの長期使用による影響であると考えられること、脳底動脈に軽度なアテローム硬化症が認められるが、その程度は政秋と同一年齢において通常みられるものより弱いものであり、梗塞の原因になり得るものではないこと、脳の病巣及び周辺部に梗塞の原因となるような病変又は血栓等の異物は存在せず、内頸動脈と外頸動脈の分岐部には動脈硬化症等の病変はないこと、脳下垂体前葉に広汎かつ新鮮な凝固壊死がみられること、左上肢の血管系について、動脈系では上肢の全長にわたって高度な壁肥厚と内腔の狭小化がみられ、その程度は、鎖骨下動脈では比較的軽度であるが、末梢に至るに従って増強し、部位により星茫状を呈するなどといった変化がみられる上、静脈系にも動脈系より軽度ではあるが同様の変化がみられ、これらの変化は長期にわたってれん縮が持続した結果であると推定されることなどの所見が得られた。
三 政秋の振動障害と同人の死亡との間の相当因果関係の有無
1 はじめに
政秋の死亡が業務に起因するというためには、業務と死亡との間に相当因果関係があることを要するが、右の相当因果関係があるというためには、必ずしも業務の遂行がその死亡の唯一の原因である必要はなく、当該労働者に特定の疾病に罹患しやすい病的素因や基礎疾患があり、それが当該死亡の条件となっている場合であっても、医学上の経験則に照らして、業務の遂行がその病的素因や基礎疾患と共働原因となって当該死亡に至ったと認められる場合には、業務と当該死亡との間に相当因果関係があるものと解するのが相当であり、右医学上の経験則は、大方の合意が得られている医学的知見を前提とするほかない。そして、右相当因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、事実と結果との間に高度の蓋然性があることが証明されれば足り、その判定は、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ち得るものであることを必要とし、かつ、それで足りると解される。
そこで、このような見地から、前記争点について検討を進めることとする。
2 振動障害の病像について
(一) 《証拠省略》によると、次の事実が認められる。
(1) 振動病とは、振動工具によって発生する振動と騒音、環境因子としての寒冷という三大ストレッサーが人体に作用して起こる自律神経性疾患であり、また循環器系疾病であって、これに骨関節系障害を随伴する全身性疾病であるということができ、その三大症状として、①末梢神経機能、末梢循環機能、末梢運動機能に基づく症状(レイノー現象、しびれ・痛み・冷感等)、②中枢神経系機能障害に基づく症状(頭重感・頭痛、睡眠障害、手掌発汗増多、耳鳴り、インポテンツ等)、③骨関節系障害に基づく症状がある、とする医学上の見解があり、昭和四九年九月より組織された林野庁林業労働障害対策研究委員会も同様の見解を採用している。この見解は、チェンソー使用者の循環器系疾患の発生機序について、大要、「チェンソーによる振動作業による騒音・振動・寒冷という三大ストレスは、大脳皮質に投影されて視床下部を中心とした大脳辺縁系を興奮させるが、ここには自律神経中枢などが存在しており、強い刺激が繰り返し伝達されると、中枢維持機能の異常を来し、自律神経系の平衡が乱され、交感神経系の緊張をもたらすため、末梢血管の収縮とれん縮発作が起き、これにより血流が低下し組織の虚血及び栄養障害を起こし、血管壁には器質的変化が起こって中膜肥厚を来し、血管内腔の狭小化が進み、また、大脳辺縁系の興奮が増大すると、脳下垂体の副腎系が影響を受け、副腎からのカテコールアミンの分泌量が増加し、血中カテコールアミンが増加することによって、一層血管の収縮度が増加する上、振動によって血管でノルアドレナリンに対する感受性が亢進され、これが血管のれん縮性を高める。」としている。
(2) ソ連のドロギチナとメトリナは、振動病を七つの臨床症候群に分類し、そのうちの一つに神経循環異常を伴う間脳(自律神経と内分泌系の中枢)症候群があり、これは高周波振動(局所、全身)による重い症状で、かなり進んだ時期に起こり得るものであって、間脳症は血管異常の全身化を背景に進展し、末梢部や冠血管及び脳血管の血管床にも血管れん縮発作を起こすのが特徴であるとしているほか、同じくソ連のアンドレワ・ガラニナの分類によると、振動病第四期では、蒼白現象が頻繁になり、部位も拡大し足にまで現われ、同様な血管けいれん発作が心臓や脳にも起こるようになるから、狭心症様胸痛やメニエル症候群を思わせるめまいや頭痛が起こるなどとされており、これを参考として決められた林業災害防止協会振動障害検診委員会の分類によると、振動障害第四期では、レイノー現象(白ろう現象)の回数や発現部位が増大し、全身の器質的変化が明らかになり、手足に起こると同様な血管緊張異常ないし血管れん縮が全身に広がり、狭心症様症状、メニエル症候群、間脳症候群などを起こすこともあるなどとされており、その他、アンドレワ・ガラニナの分類を参考とし、振動障害第四期は、循環障害が全身化する期であり、血管神経調節に関わる高位の神経中枢の障害が全身化に大きな役割を果たし、白ろう変化の発症は頻繁となり、発症の範囲は手指だけでなく、手、更に前腕にまで及ぶ場合があり、足趾にも発生し、血管れん縮発作は、心冠動脈、脳にも及ぶようになり、狭心症様の症状や頭痛、めまい、耳鳴りなどのメニエル症候群を思わせる症状も現われるなどとする見解もある。
(3) 日本産業衛生学会振動障害委員会の昭和五五年九月の報告では、振動障害とは、工具・機械・装置などの振動が主として手腕系を通して人体に伝達されて起こる健康障害をいい、その障害の病像は、振動面と接触する人体の部位、振動周波数特性と振動強度及び振動暴露時間によって異なり、通常、これに振動と同時に発生する騒音や寒冷などの作業条件、機械・工具の重量や作業姿勢その他の作業負担など、作業に随伴する因子が加わって病像は修飾されるが、振動障害はまず振動に直接暴露される部位の症状の発現によって始まり、主要な障害としては、末梢循環障害、末梢神経障害及び頸部や上肢などの骨・関節・筋肉・腱等運動器系の障害があり、これらの障害の背景には、自律神経・内分泌系の異常など中枢性の機能障害の存在が指摘されており、また、前庭機能異常が指摘される事例もある旨記述されている。
(二) これに対し、《証拠省略》によると、以下の事実が認められる。
(1) 振動障害とは、振動を手腕に伝える手持動力工具、機械などを使用することによって生じる障害であり、レイノー現象を主徴とする末梢循環障害、末梢神経障害及び運動器系障害などを主体とするものであって、チェンソーでは必ず関節や筋肉で振動が減衰していくので、振動による障害が全身に及ぶことはなく、局所の所見が重くなるにすぎず、器質的な変化は肘の関節の辺りまでの範囲で、機能的な変化も上肢の範囲であり、結局、手持ち工具によって起こる障害の範囲は上肢に限定される、とする医学上の見解がある。この見解は、末梢循環障害は血管運動神経の機能異常から始まるものであるから、その反応に交感神経中枢(脳幹)が関与する可能性は否定できず、また、振動刺激が末梢感覚神経を上行する場合にも視床を経て大脳皮質に投影されるのであるから、何らかの影響がこれら中枢に現われることも考えられるが、このことが直ちに脊髄、脳幹あるいは大脳皮質に不可逆的、器質的変化をもたらすことを意味するものではない、すなわち、中枢神経系は末梢神経系と不可分であり、末梢神経に何らかの刺激が加わればその情報は中枢神経系に伝達されるから、それを受けた中枢神経系は生体防御のために様々な反応を起こすのは当然であり、このことから直ちに中枢神経系に障害があるとはいえないし、また、長期にわたって振動暴露を受けても、生体にはストレスに対する適応能力があり、中枢神経が振動などのストレスに対して反応すべく興奮しても、休息により回復するのであるから、その適応能力を超える振動暴露は現実には考えられない上、そのような振動暴露があれば、中枢神経系が障害を起こす前に、直接暴露を受ける末梢神経、末梢循環器及び運動器が障害を起こし、もはや振動作業の続行が不可能となるので、中枢神経系の障害には至らない、としている。
(2) 振動障害の症状に中枢神経系の障害を含める見解に対し、自覚症状のみから中枢神経系の障害があると診断することは問題であり、頭痛、頭重、易疲労感、インポテンツ、もの忘れ、イライラ感、睡眠障害などの訴えの多くは、いずれの病気にも認められる不定愁訴というべきもので、振動作業特有の症状ではなく他の作業でもみられるものにすぎず、中枢神経系の障害があると判断するためには客観的かつ他覚的所見の裏付けが必要であって、いわゆる中枢神経系の症状が他の環境刺激の影響を受ける場合と異なった特徴的なものとして抽出されるべきであり、仮に抽出されたとしてもそれが振動障害として区分するための標識としての意義が存在するか否かについても検討されなければならないが、現在のところ、振動暴露により中枢神経系の器質的障害を示す客観的資料は何一つ提出されていない旨の批判がなされている。たとえば、脳波の異常についても所見は一致しておらず、脳波は年齢、意識状態、生物学的環境、精神状態等によって変動し、頭部外傷、脳動脈硬化、膠原病等でも脳波の異常がみられるので、振動障害に特有の所見とするには慎重でなければならないし、手掌の発汗増多も、振動障害に特徴的な所見というべきものではない、とされている。また、わが国における振動障害の研究論文には比較するための対照群の選定に問題のあるものが多い旨の指摘もなされている。
(3) 国際的にも、一九八〇(昭和五五)年ILO第六六回レポートがあり、WHOの協力により組織された第一二一号条約付表「職業病リスト」の改正に関する専門家会議報告書では、振動障害について、「未だ比較的知見に乏しく、あまりに不明確であり、そして特徴性がないような障害(易疲労性、神経衰弱、一般血管障害、内分泌障害等)をリストに含めることは適当でない」とされ、「振動による疾病(筋肉、腱、骨、関節あるいは末梢血管、末梢神経の障害)」と表現されている。また、一九八三(昭和五八)年三月にロンドンの王立医学協会で国際労働衛生協会会長が中心となって開催された「局所振動の手腕以外への影響に関する国際会議」では、振動の手腕以外の部位への影響とされている易疲労感、頭痛、睡眠障害、イライラ感、めまい、発汗増大、インポテンツなどの自律神経又は全身性の症状が実際に存在するか否かを検討した結果、入手し得た文献の論評や生理学的又は疫学的研究資料を分析しても、手腕振動が大脳の自律神経中枢に損傷を引き起こすという仮説を確認する資料は現在のところ全くないということで統一見解が得られ、「振動症候群の総体的な定義の問題でも意見の一致をみ、本症候群の症状はすべて末梢性であり、それは、循環障害(局所的な指の蒼白化、白指を伴う血管れん縮)、感覚・運動神経障害(しびれ、手指の微細運動障害など)、それに筋・骨格系の障害(筋・骨・関節疾患)の三つの症状である。」と結論付けられた。
(4) チェンソーによる振動は局所振動であるが、ソ連における振動病の概念には全身振動による障害も包含されており、アンドレワ・ガラニナも、前記分類とは別に、チェンソーを扱う伐木夫の振動病の臨床的特性については、五年ないし七年の労働後に毛細血管にけいれん症状が出現するが、中枢神経系の障害はないとしているほか、右ロンドンでの会議では、前記のソ連の分類の基礎となった研究が明白ではないとか、研究内容は今日の水準に照らして低いものであって信頼性に乏しいとかいった報告がなされており、結局、アンドレワ・ガラニナの分類やこれを参考とした分類は、チェンソーによる振動障害の症度分類としての妥当性を有しない可能性が高い。
(5) 日本産業衛生学会振動障害委員会報告書については、自律神経・内分泌系などの機能障害と振動障害との関わりについての研究報告はあるが、これに対し、研究方法として対照との比較がなされていなかったり、また振動に基づく特有の変化というよりも随伴する騒音によっても起こり得るものであり、これを振動障害における特徴的な症状とするわけにはいかないという反論があり、末梢循環障害を考えるときに自律神経や内分泌機能に作用ないし影響がないとはいえず、振動が中枢に作用ないし影響するという範囲では異存はないが、中枢神経系の障害があるということにはかなりの反対が出て来るので、結局、振動による主な障害は末梢循環障害、末梢神経障害及び運動器系の障害であることを明確にした上で、中枢性の機能障害はこれらの障害の背景に存在すると指摘されているという表現がなされたものである。
(6) 振動障害者では、振動暴露を受けなくなると、治療を受けなくても症状が軽減することがあり、まして治療が加えられれば、著しい改善がみられて当然であるから、もし振動を受けていないにもかかわらず症状が悪化すれば、その症状は振動によるものではなく、加齢による影響や日常生活環境、あるいは他の疾患に起因していると考えられる。なお、国有林でチェンソーを使用して伐木造材に従事する者で、管理医によってレイノー症状が確認された二六四例についてアンケート調査をし、そのうち二四八例で自覚症状を中心に症状の推移をみると、チェンソーの使用を中止したもの九〇例中、軽快が五二例、不変が三七例、増悪が一例で、そのうち血管拡張剤等の薬物を投与されたもの七七例では、軽快が四九例、不変が二八例であり、使用中止後症状の軽快したものでは、症状発現までの年数、工具使用中止後の年数と症状の推移との間に関連はみられないが、発症後早期に工具の使用を中止したものでは、軽快するものが多いようであるとし、その他の観察も併せ考えた上、振動工具の使用によりレイノー症状のみられるものでは振動工具の使用を中止することが最も望ましいと結論付ける旨の報告があるが、右増悪の原因については究明されていない。
(三) 以上の(一)(二)の事実を総合すると、振動障害の症状として中枢神経系の障害を指摘する医学上の見解もあるが、右見解は医学上の定説にはなっておらず、これに明確に反対する見解も多いことなどに徴すると、振動障害によって中枢神経系の障害が生じるとの見解が大方の合意が得られている医学的知見であると認めることはできない。なお、《証拠省略》によると、健康な男子について振動暴露実験及び対照実験を行って脳血管の反応を調べた結果、低周波及び中周波で拡張を示し、高周波では収縮する場合があった旨の報告、振動症候群における全血粘度は同年代対照者群と比較し高い値を示す傾向があり、特に低温、低ずり速度の条件下でより高い値を示した旨の報告、奈良県吉野郡の白ろう病要治療患者三四名について脳波及び筋電図検査を行った結果、中枢性変化が高率に観察された旨の報告がそれぞれなされていることが認められるけれども、これらは、振動が中枢神経系に作用ないし影響することを示しているにすぎないもの、対照群との比較がなくて信頼性の乏しいものなどであり、いずれも右判断の妨げとなるものではない。また、《証拠省略》によると、櫻井忠義は、イギリスでは、わが国よりかなり早い段階でチェンソーの使用時間規制、防振チェンソーの導入などの対策が講じられ、フィンランドでも保温ハンドル付防振チェンソーが早くから導入されるなどの配慮がなされていたほか、作業現場についても、諸外国では平坦な森林であるのに対し、わが国では一般に奥地や山岳が多く急傾斜地であるというように、わが国の作業対策や作業現場は諸外国より劣悪であったから、振動障害の症状として、諸外国で中枢神経系の障害がみられなくても、わが国ではそれが現われることがある旨述べていることが認められるが、右の諸外国とわが国の違いから直ちに振動障害の症状として中枢神経系の障害があると認めることはできない。
3 政秋の脳梗塞の原因について
(一) 原告は、政秋の脳梗塞の原因が振動障害に基づく脳血管のれん縮発作にある旨主張しているところ、《証拠省略》によると、政秋の主治医であった吉岡信一は、政秋の脳梗塞は振動障害による脳血管れん縮発作が繰り返し発生した結果引き起こされたと考えられるとしていること、政秋の解剖を行った岩田克美は、政秋の場合、脳動脈に器質的変化を来すには至らない程度のれん縮発作が生じていた可能性を否定することはできないとしていること、更に、高松は、前記2(一)(1)に掲げた見解を前提として、振動障害の発症因子である振動、寒冷、駆音等がストレッサーとして生体に大きな影響を与え、自律神経系や内分泌系の調節を乱し、脳血管のれん縮性を高め、大脳に虚血状態をもたらし、脳梗塞を発生させると推測される旨の見解を採っていることが認められる。
(二) しかしながら、他方において、《証拠省略》によると、次の事実が認められる。
(1) 脳梗塞は、脳血管の血流障害により、脳組織が壊死を起こすものであって、血流障害の原因としては、脳血栓、脳塞栓のほか、くも膜下出血に伴う脳血管れん縮などがあるところ、血管のれん縮については、末梢血管は神経支配(自律神経の支配)を受け比較的容易にれん縮を起こすのに対し、脳血管の場合、生体防御のため脳血管の血液を一定に保たなければならないので、脳血管には分布する神経が少なく、神経支配を受けないから、れん縮は一般に起こりにくいのであって、脳血管と末梢血管を同視することはできず、また、脳血管れん縮が生じるのはくも膜下出血の場合が大多数であり、他に頭部外傷、髄膜感染症、機械的な脳動脈の刺激などで生ずることもあるが、これらは非常に稀である。なお、病理学的検討によって責任動脈と思われる部位に閉塞が認められない「動脈閉塞のない梗塞」やTIA(一過性脳虚血発作)の原因として以前は脳血管れん縮が挙げられていたが、現在では否定されている。
(2) くも膜下出血の場合のれん縮発作の成因については十分解明し尽くされていないが、血管れん縮の発生にかかわる因子には外在性因子と内在性因子があり、外在性因子として、くも膜下血腫による圧迫など血管に対する機械的刺激、くも膜下血腫中の血管収縮物質(セロトニン、プロスタグランジン、オキシヘモグロビンなど赤血球由来物質)、血管運動神経の興奮などが、内在性因子には動脈壁の組織学的変化、神経伝達物質に対する血管平滑筋の感受性の変化、動脈壁の代謝障害などがそれぞれ挙げられているところ、振動障害では右のような発症因子が存在することは証明されていないし、振動障害による脳血管れん縮は、明らかな臨床的事実として経験されていない。また、脳血管れん縮に対する自律神経の関与は大きくないというのが現在の大勢の意見である。
(3) 脳血栓は、脳血管に生じた血栓により脳血流障害が起こって脳梗塞を生じるものであり、血栓形成の原因としてアテローム硬化に伴う血栓が多く、前駆症状として脳虚血発作を繰り返すことが多いのに対し、脳梗栓は、脳血管以外の部位で形成された血栓等の塞栓物質が脳内に移行して脳血流障害を起こして脳梗塞を生じるものであり、その塞栓物質が血栓の一部である血栓性塞栓症が多く、その血栓の大部分は心臓に由来し、心臓由来の血栓の大部分は心房細動によって形成されたものであるが、その他の不整脈も原因となる。脳梗栓は、大多数において前駆症状がなく突然発症し、年齢、高血圧、アテローム硬化とは必ずしも関係がない。なお、血栓性塞栓症の場合、心房や心房壁に付着している陳旧性血栓ではなく、生成直後の新鮮な血栓が遊離して塞栓を起こすといわれており、剖検時までに融解してしまい、剖検時には血栓が認められないことも十分あり得るから、血栓の存在が認められないことをもって直ちにその存在を否定することはできない。
(4) 心房細動は、心房が全体としての収縮を行わず、心房の小部分が秩序なく頻数に興奮する状態であり、心房内に血液が停滞貯留するので血栓が形成されやすく、基礎心疾患がなくても心房細動があれば血栓は形成される。また、心房細動と脳梗塞の関係については、平均年齢七八・四歳の脳塞栓の症例一六一例(男八一例、女八〇例)について検討した結果、心房細動が一一五例にみられ、そのうち基礎心疾患に伴うものは五三例で、残りはいわゆる孤立性心房細動であり、老年者脳梗塞の原因として心房細動は基礎心疾患の有無に関わらず重要であるということができ、また、東京都老人医療センターの連続剖検例二三四〇例(男女ほぼ同数)のうち、心房細動を有する四〇五例中、持続性心房細動二三八例と一過性心房細動一六七例を比較すると、前者が後者より脳塞栓を生じやすいが、脳塞栓の発生頻度は前者が八一・一パーセント、後者が七四・三パーセントでいずれも高率であったとする報告がある。
(三) 右認定の事実に前記二で認定した事実を併せ考えると、振動障害におけるレイノー現象は末梢血管のれん縮であり、政秋の左上肢の血管系にはれん縮の結果として障害が生じていたのであるが、このことから直ちに脳血管においてもれん縮を生じるとはいえず、また、政秋の脳底動脈のアテローム硬化症は軽度なものであったこと、前駆症状がなく突然発症したこと、政秋には以前から一過性の心房細動がみられたことなどを勘案すると、心房細動によって形成された血栓が脳内に移行して脳梗塞を起こした可能性が高いのであるから、政秋の脳梗塞の原因を脳血管れん縮であると認定することはできない。
(四) これに対し、《証拠省略》、証人岩田克美の証言によると、同証人は、前記(一)のとおり、政秋の場合、脳動脈に器質的変化を来すには至らない程度のれん縮発作が生じていた可能性を否定することはできないとした上、その根拠として、(1)政秋には梗塞と診断し得る病巣が脳と脳下垂体の二臓器にわたって認められたので、その原因は場所を異にする臓器に同様に働くものでなければならないところ、振動障害が、局所の刺激だけでなく、寒冷、騒音その他の要因がすべてストレスとして作用し、これが中枢を介して副腎髄質を刺激し、そこからノルアドレナリン、カテコールアミンというホルモンを分泌し、これが全身の交感神経の緊張を高め、血管の収縮を起こすものとすれば、その影響は全身に及ぶはずであり、政秋に認められた胃角部の多発性消化性潰瘍瘢痕もそれと無関係ではないと考えられ、脳の虚血性病変も交感神経緊張の結果としてそこに血管れん縮が作用した可能性を除外できないこと、(2)くも膜下出血あるいは脳動脈瘤破裂の場合には動脈のれん縮が起こって致命的な脳梗塞を起こし得るのであるから、れん縮の可能性が想定されるなら、政秋の場合、れん縮が梗塞の発生に重大なかかわりを持ったと考えられることを挙げている。
しかし、右(1)は、①振動障害の症状が全身障害であること、②政秋の脳下垂体前葉の広汎かつ新鮮な凝固壊死が貧血性梗塞であってレスピレーター脳ではないことを前提とするものであるが、右①の前提は前記2で検討したとおり直ちには採用し難いものであり、また、証人岩田克美の証言によると、同証人は、右②の根拠として、レスピレーターによる変性は通常脳の実質に起こるもので、脳下垂体にレスピレーターによる病変が起こった経験はないこと、レスピレーターの影響によるものであれば、全体にびまん性に等軽度の変性が起こるべきであるのに、脳下垂体後葉に近い部分に健康な部分が残っていることの二点を挙げているが、前記二の2及び3のとおり、政秋は昭和五二年九月一四日夕刻からレスピレーターを使用されて同月一九日に死亡したこと、同人の剖検所見では脳実質が一般に脆弱で、軟化、変性の徴候を示しており、これはレスピレーターの長期使用による影響であると考えられることに加え、《証拠省略》によると、レスピレーター脳とは、脳死が生じ自発呼吸も消失しているがレスピレーターによって心肺機能が保たれている状態での脳を意味し、脳下垂体前葉の壊死がよく認められること、脳下垂体に梗塞が起こる頻度が最も高いのはレスピレーター脳であるといわれていること、脳下垂体の血流動態は、後葉は内頸動脈からの血流の外、硬膜外からの血流も受けており、その多くを低圧の下垂体門脈より受ける前葉とでは、脳圧亢進に対する抵抗が明らかに異なり、脳死の際脳圧が亢進している状態では、まず前葉の血流が先に途絶することが十分考えられ、前葉のみが血流途絶により軟化、融触を起こすことに疑問はないこと、脳下垂体前葉には二か所から血管が入っているので、一方が詰まっても、他方から補充ができるという特性を持っているから、脳下垂体が梗塞を起こすのはレスピレーターのように外から脳圧が上がる場合であることが認められ、これらの事実に徴すると、政秋の脳下垂体前葉の広汎かつ新鮮な凝固壊死は、レスピレーター脳であって貧血性梗塞ではないと認められるから、右②の前提も採用することができず、更に、右(2)は脳血管れん縮の可能性が想定されることを前提とするものであるが、この前提も前記(二)の認定事実に照らして採用することができない。
4 小括
以上のとおりであるから、政秋が振動障害によって脳血管れん縮を起こしたため脳梗塞により死亡したと認めることはできず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。
5 振動障害と心房細動又は血栓形成について
原告は、仮に政秋の脳梗塞の原因が心房細動によって心臓内に形成された血栓が脳内に移行したことにあるとしても、心房細動の発生及びこれによる血栓の形成の原因が重症の振動障害による心筋の虚血発作である可能性を否定することはできないから、振動障害を脳梗塞発症の共働原因であるというべきである旨主張し、また、前記のとおり剖検所見では政秋の脳底動脈のアテローム硬化の程度は梗塞の原因になり得るものではなかったとされているものの、《証拠省略》によると、脳梗塞の原因には、脳や頸部の血管の病変だけでなく、血行動態の変化、血液性状の変化などの諸要因が緊密に関与しており、その原因を単一の病体に求めるのは困難なことが多いこと、脳血栓の場合でも剖検時に血栓がみられないことがあること、一般に脳血栓と脳塞栓との鑑別は困難であり、政秋の脳梗塞についても心房細動を有することなどから脳塞栓であろうと推定されたにすぎないことなどが認められるから、政秋の脳梗塞の原因が脳血栓ではなかったと一概に断定することもできないと考えられる上、《証拠省略》によると、血液の粘度の増加は血流速度を低下させ、血栓発生を促進し、血液の粘度はヘマトクリット値、フィブリノーゲン値、血中たんぱく質の種類及び量などに影響され、また凝血能亢進も血栓形成に影響し、血小板の粘着能や凝集能が亢進している場合、血栓が生じやすくなること、振動症候群における全血粘度は同年代対照者群と比較し高い値を示す傾向があり、特に低温、低ずり速度の条件下でより高い値を示した旨の報告があること、和歌山県下の山村の主として山村労働に従事する男子振動障害患者二〇二例と同県下の漁村、山村の比較的重労働に従事する男子で振動工具を使用していない二五四例との心電図を対比し、振動障害患者の心電図異常を調べて胸痛の原因について検討した結果、比較的重労働者に比べ、振動障害患者では不整脈の出現頻度が有意に高く、特に洞性徐波及び心房細動が多かったという報告があることなどが認められるから、一般的に振動障害が心房細動又は血栓形成に関与する可能性があると考える余地が全くないわけでもないが、他方、前記二の2及び3で認定した事実、特に、政秋は昭和四四年一二月チェンソーの使用を中止して八年近くを経過して死亡しており、しかも昭和五一年三月から振動障害の治療を受けていたこと、政秋が不整脈を来すようになったのは昭和五〇年一〇月ころからであり、同人に初めて心房細動が認められたのは昭和五一年三月であったこと、政秋の血液粘度は必ずしも明らかでないが、ヘマトクリット値は正常範囲であり、仮に血液粘度が増加していたとしても、それは高血圧によるものである可能性が高いと考えられることなどを併せ考えると、振動障害と心房細動又は血栓形成との間に相当因果関係があると認定することはできないというべきである。
四 結論
以上のとおり、政秋の振動障害と脳梗塞との間に相当因果関係があるとは認められないから、同人の死亡が業務上の事由によるものであるとの原告の主張は証明不十分であるといわなければならない。したがって、本件処分が違法であるということはできず、原告の請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 山脇正道 裁判官 佐堅哲生 河田充規)